本と映画の埋草ブログ

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萩尾望都「一度きりの大泉の話」はやはり衝撃の本と言わざるを得ない

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「一度きりの大泉の話」
萩尾望都
2021年4月30日初版発行
河出書房新社
1800円+税

 ある日、書店の目立つ棚に、萩尾望都「一度きりの大泉の話」という美しい書籍を発見した。ネットで話題になっていたのは、ぼんやり目にしていた。カバーは麗しいエドガーのイラストであり、思わず手に取った。パラパラと本をめくると、萩尾望都デビュー当時のものと思しきマンガの下書きのようなラフスケッチや、なぜかマンガ作品「ハワードさんの新聞広告」も収録されている。勢いで、前書き部分を読む。「竹宮恵子先生とは交流を絶ってしまいました」「竹宮先生の作品も読んでおりません」「大泉時代のことは封印していました」といったことが記されており、ただごとではない雰囲気が漂っている。こ、これは、なんか凄そうな本ではないか。

 「一度きりの大泉の話」の〈大泉〉とは、萩尾望都竹宮恵子と同居していた場所である。ここに二人が住むことになったのは、増山さんという、もともとは萩尾望都の友人が、大泉に住んでいたからだという。萩尾望都の紹介で竹宮恵子も増山さんとすぐ親しくなった。
 親の反対や経済的自立等の理由から、上京してマンガ家生活を始めることに躊躇していた萩尾に対し、竹宮は同居を呼びかける。しかも、講談社「なかよし」に持ち込んだ原稿がなかなか売れずに苦労していた萩尾の作品を、小学館へ紹介したのも竹宮だ。これにより、萩尾望都の伝説的初期作品の数々は、発表へ至る道筋をつけられたこととなる。
 そういったわけで、大泉で同居を始めた萩尾望都竹宮恵子。「少女マンガ版トキワ荘」と形容されることもある通称「大泉サロン」の誕生であり、そこへ同時代のマンガ家たちが集まってくる。そのあたりの描写は大いに迫力があって、70年代初頭、少女マンガ家の卵たちが、マンガを熱く語ったり、お互いのアシスタントをしたりして過ごす様子は、一種の青春回顧録のようで、読んでいても楽しい部分だ。萩尾の初期作品の誕生の裏話なども綴られている。
 しかし、間もなく、この同居は破綻を迎える。

 この本を読んでいて、たびたび感じるのは、萩尾望都の自己評価の異様な低さだ。増山さんと竹宮恵子少年愛や少女マンガの未来を熱く語るのを、萩尾は難しすぎて理解が出来ないとし、自分はただ好きなマンガを描いていたにすぎないと言う。
 後に続々とデビューするマンガ家たちが集う「大泉サロン」のなかにあって、萩尾望都はあまり語らず、淡々と〈自称〉「地味なマンガ」を描き続けてきたと自らを描写するが、萩尾初期短編マンガのファンである側の私からすると、あんな超名作を「誰からも必要とされないような地味なマンガ」と本人が思っているのが理解できない。この人は自分が天才だということに、あまりにも無自覚すぎるのではないか。
 この本は萩尾望都が書いたものだから、当然、萩尾望都の苦悩が描かれ、それは想像を超えた辛さで、もちろんびっくりするし、辛かったであろうと思うのだが、一方で竹宮恵子側はどうだったのだろうとも考えさせられる。萩尾望都側が描く「一度きりの大泉の話」であるが、竹宮恵子の気持ちについても想像を巡らさざるをえなくなる。
 周囲の「少女マンガ革命」的な熱気を一顧だにせず、同居人の萩尾は淡々と革新的な名作の発表を続けていくのである。しかも、萩尾と竹宮は資質に似たところがある。絵柄の顔が似ているし、少年を主人公としたドラマが多いところが似ているし、二人ともSFマンガを描いている。共通の友人がいっぱい居て、お互いに下書きやアイデアスケッチも気軽に見せ合う環境。しかも、竹宮は、萩尾の作り出すものの価値の大きさがあまりにも分かっちゃうのである。これは十分にたまらないことだと思う。自分の天才に無自覚な同業の同居人に対し、竹宮恵子がある種の「嫉妬」に狂ってしまい、変な行動を起こしてしまうのも、ある意味、無理もないように思ってしまう。そして、竹宮恵子萩尾望都は決定的な別れを迎えてしまうのだ。しかし、萩尾望都は、竹宮の「嫉妬と恐れ」がまったく理解できなかった。
 「一度きりの大泉の話」によれば、当時の萩尾は竹宮から一方的に拒絶を突きつけられと感じており、理由はまったく分からなかったと述べている。

 いまやお二人ともに大御所のマンガ家であり、当時にしても、すでに名作の数々を生み出してたので勘違いしがちだが、二人が大泉で同居していたのは、ほんの20歳くらいの、ごく若い時分のことだ。そう考えると、嫉妬や勘違い、純粋ゆえの意地の張り合い、思慮の浅いようなことも起こりえよう。若い二人にとっても、その後の少女マンガ界にとっても不幸といえる決別は、ちょっとしたことを基に起こったのだと思う。ただまあ、それをあの萩尾望都が綴ったのであるから、これはもう日本文化史における貴重な文献となってしまう。
 名作「小鳥の巣」執筆途中でこのようなショッキングな出来事があり、そして、萩尾望都が本書の描写の如く凄まじい体調不良を引き起こしていたというのは、やはり、改めて驚くべきことだ。

 この本が書かれた原因となったのは竹宮恵子の自伝「その少年の名はジルベール」がヒットし、大泉サロンが少女マンガ版「トキワ荘」みたいな感じで注目を集め、竹宮と萩尾の対談やらドラマ化やらの企画が多発し、萩尾望都へ様々なオファーが舞い込んだからだと前書きにある。萩尾にとってこの本「一度きりの大泉の話」は、大泉関連の仕事のオファーが来ないようにするための、また、お断りするための〈実用本〉という目的で書かれたものと受け取れる。ただし、それにしても、そういう出版理由も凄すぎる気がするが……。
 いずれにせよ、若い才気あふれる少女マンガ家の衝突と、その後、長きにわたって記憶を封印するという出来事は、かえってドラマチックになってしまったのではなかろうか。
 衝撃作というほかない。